軋む妄言茶屋

無力なオタクのたわごとが読めるのは三千年紀だけ

確率的な汚れ

 明日には期末試験があるのだが、どうもやる気が出ずに何も勉強しないでいる。

 経験上、こうした日は結局何もしないものだから、明日気分が変わることを期待して早くに床に就いた。しかしどうにも言葉が頭を巡るものだから、久々にこうして何か記そうと、本日のことを書き連ねている。

 今日、新しく肌着を着下ろした。吸汗速乾の品である。夏場は汗がすぐ乾く肌着がよい。じっとりと背にぬめりつくような素材では鬱陶しい。この間そんなふうな肌着をしていたから不快で気が狂って、夜風を浴びるためだけに自転車を漕いだ。そんなのはもう懲りたから、着心地が良さそうなのを買ってきたのだ。

 服を下ろすときに気になるのは、袖を通す前に一度洗うかどうかだ。今日の肌着は買ったそのままに着たが、考えてみれば、消費者の手に渡るまでにどのような扱われ方をされたのかというのは、まるで分からない。どうせ工業製品だから大した衛生管理はされていないだろう。どこかで床に落としたかもしれないし、誰かが汚れた手で触ったかもしれない。書いていてなんだか洗ったほうが良かったのではないかと思えてきた。

 だが、実際いま着ていて僕は汚れたと認識していない。認識していないのだから、僕は汚れていない。結局汚れというのは危険意識から渡来する忌避感であり、僕という一個人が実害を被らず一切の認識を持たないのであれば、それは汚れていないのと同じだ。

 一度着た服を洗うのは当然である。それは確実に汗や脂で汚れているし、そのまま着ると臭うし、肌触りも違う。しかし新品の服を洗うのは、確実に付着した汚れを落とすというよりはむしろ、綺麗さを塗りたくるために洗っている。それは清潔を保証するべく、新品の服に信頼を塗装するための洗濯だ。確率的な汚れを濯いている。

 とは言えど、汚いかもしれないことには違いないので、次からは僕も洗おうと思った。